【質問】 強制的延命処置についてどう思いますか。たとえば、生命維持装置があればその「肉体は死なない」、はずしてしまうと「死亡する」という場合、装置をはずすことは「殺人」になるのでしょうか? 

 

 

【お答えします】

 

<生命保存の義務>

人は生命とその生命の目的を天主より与えられている。この目的は私たちのもの(内的目的)であると共に、同時に天主の外的栄光(外的目的)に従属する。人にとって現在の生は「宝を天に蓄える」(マテオ620)ために、目的に向かって勝負を競うもののように走る(1コリント92426)べき時期である。であるから、現世における私たちの任務は、天主から生命を召されるまで、まず、天主に対して果たすべき正義の義務であり、ついで己に対する愛徳の義務である。

そこで人はおのおの己が生命、健康、身体の全きを保つべき義務をもつ。生命を保つべき義務は本然的に重大であり、健康および身体保全の義務には軽重の別がありえる。

上からの帰結として衣食住の手段を講ずべき義務が認められる。しかし義務を構成するのは通常手段であって非常手段を講ずべき義務ではない。(野田時助著『カトリックの信仰』第9636ページを参考にした。)

したがって、通常手段を使わずに患者を自然に任せて見殺しにすることは正義に反している。通常手段であれば私たちには患者に「強制的延命処置」を行う義務がある。

 

 

では、

1.全く絶望的なケースの場合でも、全ての場合において、現代の蘇生術を使うことが出来るのか或いは使わなければならないのか。

2.患者の意識の状態が変化しない場合で、さらに、そのまま人工呼吸器などの蘇生機械を止めてしまうと数分後には血行が止まってしまうと分かっている場合、この機械を止めることが出来る、あるいは止める義務があるのか。

3.このような患者は、法律上のみならず、終油の秘跡を授けることが出来るかを判断するために、生きていると考えられるのか、それとも既に死んでいると考えられるのか。

 

これらの質問にピオ12世は、19571124日に回答を与えている。

 

「自然理性とキリスト教倫理は、人間(と自分の同類の世話をする人は誰でも)は、重大な病の場合、生命と健康を保存するために必要な世話を受ける権利と義務がある。この義務は、自分自身に対して、天主に対して、人類共同体に対して、非常にしばしばある特定の人々に対して持っている。この義務は、良く秩序だった愛徳と、創造主への服従と、社会正義と、更には厳密な意味における正義と、その家族への敬愛の心から生じるものである。しかし普通の場合、通常の手段を使うことのみを義務とさせる。そしてこの通常の手段とは、人と場所、時代と文化などの状況に従って判断され、自分と他者とにとって特別の重荷を課さない手段のことである。これよりもより厳しい義務はほとんどの人々にとって重すぎる荷となるだろうし、より重要なもっと高貴な善を得ることを難しくするだろう。生命、健康、この地上での活動は、霊的な目的に従属している。

他方で、より重大な義務を不足なく果たすという条件で、命と健康を保存するために最低限必要なこと以上をすることは禁止されていない。」

 

従って次のような原理を立てることが出来る。

1.全ての人は、生命の保全のために通常の手段を使う義務がある。

2.全ての人は、生命の保全のために非常手段を使うことが出来る。

3.非常手段を使うことは、良心上、誰の義務でもない。

 

「非常手段」とは、今から半世紀前、終戦直後(1950年代)に出された、野田時助著『カトリックの信仰』第9巻によると、こうある。

「ここにいふ非常の場合は、・・・例へば、重病の場合、意思の診察を受けることは、一般的に通常の手段でもあっても、境遇が許さないほどの高価な療法とか、境遇が許しても、一流の専門医を呼ぶとか、転地するとか甚だしい苦痛や困難を忍ぶこと[などであって、これら]は、非常手段とされて良い。肢体の切開、切断は今日では苦痛を和らげる方法もあり、危険も予後の心配も少ないものは非常手段とは言われない。」(636ページ)

ただし、この本が書かれた当時はようやく「輸血および皮膚の移植は、肢体の殺害の中に数えられないばかりでなく、好結果をもたらすことも立証されているが、固有な意味の肢体や器官の移植は、これを正当化させるほどの効果は立証されていない」(642ページ)時代であり、帝王切開術について「かつては非常手段であったこの手術は、今日では通常の手続きとなり、これによって死亡する患者はほとんどないといはれるに至っている」(653ページ)と書かれた時代である。

 

西暦2004年の現代日本では今から50年前には「非常手段」であったこともその多くが「通常の手段」になったと考えられる。通常の薬や食事や水の摂取、或いは排泄などを手伝うのは、「通常の手段」であり、当然の義務であるのは勿論のこと、輸血、麻酔、透析などは通常の手段になったと思われる。

 

【例えば、柳田邦男 著『脳治療革命の朝 脳死寸前からの劇的な生還』(文芸春秋2000年)によると、北海道で極寒の海に転落し、半時間冷たい海水に浸かった10歳の少年が、事故現場から治療のできる病院まで救急車なら通常1時間15分以上かかるところを、ヘリコプターによって23分で運ばれ、心蘇生には1時間もかかったが、脳低体温療法によって何の後遺症も残さず「奇跡の生還」をとげたこともレポートされている。私たちはこのようなことが通常の手段になる日が早く来ることを祈る。】

 

 

では、生命維持装置があればその「肉体は死なない」けれども、この状態はいつまで続くか分からない。すでに数年も生命維持装置によって「生き続けている」。例えば、患者は高齢者でそれを長い間高額の生命維持装置によって支える家族には、十余名の就学中の手のかかる子供たちがいる。この家族の精神的な苦悩と莫大な医療費を鑑みた場合、生命を自ら取り戻す希望はほとんど無い、しかし、生命維持装置をはずしてしまうと「死亡する」という場合、装置をはずすことは「殺人」になるのか、「安楽死」を行ったことになるのか? 

 

ピオ12世はこう言っている。

「蘇生の試みが続けられた場合、実際問題として、家族に対してそのような負担が良心上課せられ得ないと思われるとき、家族は、合法的に医師に蘇生の試みを中断することを願うことが出来、医師は合法的にその望みを叶えることが出来る。この場合には、患者の生命に直接かかわることや安楽死をしたことにはならない。もしそうであったら、許されないことである。この蘇生の試みの中断のために、血液が循環しなくなったとしても、それは生命を直接奪う行為とはならない。この場合には二重効果の原則と「原因において意志ある行為(voluntarium in causa)」の原理を適応しなければならない。」

 

二重効果の原則と「原因において意志ある行為(voluntarium in causa)」の原理とは、次のようなことである。

 

「悪結果を生ずる原因を意欲することは、もし原因自体が悪ではなく、悪結果に平行する善の結果があり、この善を意図して、悪を意図せず、且つ、悪を黙認するにたる重要な理由があるならば、悪結果を生ずる原因を意欲することは許される。」

1)例えで説明しよう。酒飲みに美味しい酒を適度に勧めることは、それ自体では悪ではない。しかし、酒飲みは美味しい酒を誘われて飲み始めると、よくよく飲み過ぎてしまい、適量を過ごし、酩酊するに至ることが良くある。そのような場合には、たとえ酒を適度に勧めることがそれ自体悪ではなかったとしても、このような酒飲みに美酒を勧めるのは慎むべきだろう。私たちは、彼を酩酊させることを目的に、酒を勧めることは許されない。

2)ところで、この酒飲みが殺人を決意していた、ということを密かに知ったとする。

3)「酩酊」それ自体は、「殺人防止」それ自体の必要手段であるという関係ではない。「酩酊」(悪結果)と「殺人防止」(善の結果)とは「美酒の提供」(それ自体悪ではない原因)から生じる平行する結果である。

4)殺人を決意していた酒飲みが、たとえ酩酊するという悪結果に至るだろうと予想されても、殺人の代わりに好きな酒を飲むということをして、殺人を犯さないという良い結果が予想され、この悪結果を黙許するに足りる重大な善結果(殺人防止)を目的とするならば、私たちは彼に酒を適度に勧めることが許される。

(野田時助著『カトリックの信仰』第8404405ページ参照)

 

あるいは、別の例を挙げよう。

1)健康回復のために「手術」をするのは、それ自体で悪ではない。しばしば手術をしないことによって生命を落としてしまうことさえある。

2)しかし「手術」には、失敗の危険がいつも伴い、中には「生命の危険を伴う手術」もある。

3)「手術を執行すること」それ自体は「死亡」ということの必要な手段ではない。「手術を執行すること」から「健康回復」(善の結果)が生じうるし「死亡」(悪結果)が生じうる。

4)たとえ患者が、死亡してしまうかもしれないという悪結果が予想されても、手術をしないことによって患者の生命は失われることが考えられるなら、「健康の回復」を目的として「生命の危険を伴う手術」を執行することは許される。

 

あるいは、

1)原子爆弾と科学生物兵器また宇宙戦闘兵器などを開発しようとしている敵があり、これに関する情報を敵に渡さないと言うことは、悪ではない。もしこれが敵国に渡ってしまうと、我が国の国民の安全が危うくなる。

2)ところで我が国の国家安全に関する秘密を積んだ飛行機が敵によって包囲され、国家の運命を危うくする情報が敵の手に渡る直前に至った。

3)飛行機のパイロットは、飛行機に積んであった情報を敵国に渡らないために「爆破処分」することにした。しかし「爆破処分」することによって敵に情報は渡らない(善の結果)が、自分の乗っている飛行機も損害を受けるだろう。うまく脱出することが出来ればよいが、もしかしたらパイロットの死(悪結果)の危険もある。

4)「パイロットの死」それ自体は、「敵に情報を渡さないこと」それ自体の必要手段であるという関係ではない。「パイロットの死」(悪結果)と「敵に情報を渡さないこと」(善の結果)とは「情報の爆破処分」(それ自体悪ではない原因)から生じる平行する結果である。

5)我が国の国民の安全という重大な理由を鑑みて、パイロットは危険を冒しても敵に情報を渡さないために「情報の爆破処分」をすることが許される。

 

野田時助著『カトリックの信仰』第9638ページには、次のような例も載っている。

焼死を避けるために、或いは婦人が魔手を逃れるために、高窓から飛び降りてしまうこと、

敵手に陥るに先立って、船を焼いてこれと運命を共にすること、

破船の場合に救助帯を他人に譲ること、

他人の信仰を固めんがために進んで迫害者の前に出ることなどは、

その結果、死を招くことを予見する場合でも許される行為であり、時としては愛徳の優れた実践である。

 

【同時多発テロで飛行機が高層ビルに突っ込んだとき、何十階もの高層階から次々と人が飛び降りた。絶対に死ぬと分かっている高さから人間が飛び降りたことになるが、彼らの行為は「焼死する恐怖から逃れるため」であった限り正当化されると思われる。パイロットの死に因んで、19991122日の自衛隊機墜落事件、或いは、コンコルド機の墜落事件のことも思い出される。自衛隊のパイロットは脱出のチャンスを失ってまで、住宅地への墜落を回避した可能性が高いと読みました。この二人の高級将校は、十分な高度での脱出を自ら選ばなかった、おそらく、もう百メートル上空で脱出装置を作動させていれば、彼らは確実に自らの命を救うことができた、百メートル上空で脱出すれば、彼らは確実に助かっただろうが、その場合残された機体が民家や学校に激突する危険があった。彼らは、助からないことを覚悟した上で、高圧線にぶつかるような超低空で河川敷に接近した。そうして、他人に被害が及ばないことが確実になった段階で、万一の可能性に賭けて脱出装置を作動させた、と。http://www.nomusan.com/~essay/essay_06_tsuiraku.html

 

 

 

では、非常手段的な生命維持装置の話しに戻ると、私たちはこう結論できるだろう。

1.回復の確かな見込みがない場合は、蘇生の試みを合法的に中断することが出来る

2.蘇生の非常手段を中断した後に生じた患者の死は、直接望まれたのではない。医師も家族もこの死について責任を問われない。

 

患者の霊魂のことを考える家族は、患者が終油の秘跡を受けるように取り計らうだろう。カトリック教会はこのような状態の生死が不確かなカトリック信者にでも、秘跡を施すことを望んでいる。司祭は、「Si tu es capax もしも汝が秘跡を受けることが出来るなら、あるいは、si tu vivis もしも汝が生きているなら」と条件を付けて秘跡を授ける。

 

文責 トマス小野田圭志神父 (聖ピオ十世会司祭)

La vie coûe que coûte... ou la léthargie sans fin? par M l’abbe Jean-Pierre BOUBEE dans « le respect de la vie --- la doctine de l’Eglise--- » pp117-120を参考にした