マルセル・ルフェーブル大司教
(聖ピオ10世司祭兄弟会創立者)
の略歴
作成 トマス小野田圭志
聖ピオ10世会司祭

1905年11月29日 マルセル・ルフェーブル(Marcel Lefebvre)フランス、リール市に生まれる。
1923年 ローマのフランス人神学校に入学
1929年 ローマのフランス人神学校で哲学及び神学博士号を取得、卒業
1929年9月21日 フランス、リール市にて司祭叙階
1929年 リール市のマレ・ド・ロム(Marais de Lomme)の副主任司祭として任命を受ける
1931年 聖霊修道会に入会
1932年〜38年 アフリカ、ガボンにて宣教活動。首都リーブル・ビルの神学校教授、神学校長を歴任
1938年〜45年 ガボン各地宣教活動
1945年〜47年 フランス、モルタン(Mortain)哲学部門の神学校長
1947年6月12日 ダカール(アフリカのセネガル)の教皇代牧(Vicar Apostolic of Dakar)の任命を受けアフリカに戻る
1947年9月18日 司教聖別を受ける
1947年9月22日 教皇ピオ12世より、教皇代理(Apostolic
Delegateの訳、これは教皇大使とほぼ同じ。47年〜62年まで)の任命を受ける
1955年9月14日 ダカールの初代大司教となる
1948年〜59年 アフリカのフランス語圏の18ヶ諸国の為の教皇代理(Apostolic Delegate)となる。
スイスのテレビ局(Suisse Romande Television)は1977年9月8日にエコン神学校特集を放映し、その番組の中でドミニコ会士、コスマオ神父(ルフェーブル大司教が教皇代理であった当時ダカールにいたドミニコ会の修道院長)は次のような証言をした。「ピオ12世が教皇であった間、ルフェーブル大司教は、サハラからマダガスカルに至るまで当時フランス語圏であった全アフリカにおいて、全権を掌握しており、最も重要な人物であった。ルフェーブル大司教は教会のために尽くし、アフリカの人々や司祭達はルフェーブル大司教のことを自分たちのための司教様であると考えていた。」コスマオ神父によると、「その後変わったのは、教会であって、ルフェーブル大司教ではなかった」と。
コスマオ神父によれば、ルフェーブル大司教はカトリック教会の持つ真理と権利と権能を自覚している代表者であり、教会がラテン語を使わないとか聖伝のミサを捧げないと言うことよりもむしろカトリック教会が新しい世界に服従し、それの中に取り込まれようと望んでいることを嘆いている、と言う。
1955年 教皇座のための補佐(Auxiliary for Apostolic See)の任命を受ける
1960年 第2バチカン公会議の中央準備委員(Central Preparatory Commission of the Second Vatican Council)に教皇ヨハネ23世より選ばれ、準備の仕事をする。
2年間の間に、中央準備委員会は世界中から選ばれた枢機卿から平信徒に至るまでの871名の学者たちの努力によって草案(schemata)が出来る。事務局のカルボーネ司教(Mgr. Vincenzo Carbone)はこの草案について以前の公会議はこれほど「広く、勤勉に準備され、深い」草案をもっていなかった、と言うほどであった。ルフェーブル大司教は「この準備の仕事は、非常に良心的に、完璧を目指して為されました。私は72の草案をもっていましたが、この72の草案のなかの教会の教えは絶対的に正統的で、ほとんど手を着ける必要がありませんでした。(これらの草案は、第2バチカン公会議が開始されるやいなや、すぐに放棄された。)
1962年1月23日 アフリカ生まれの大司教(後のヤサント・ティアンドゥム枢機卿)に席を譲るために、アフリカでの大司教の座を辞職する。
1962年1月〜8月 フランス、チュール(Tulle)の大司教
1962年7月 聖霊修道会の総長に選ばれる。総会のメンバーの要請と教皇ヨハネ23世のアドヴァイスを受け、総長職を引き受ける(〜68年)。第2バチカン公会議直前まで、聖霊修道会の総長をして全世界を視察に回る。(ルフェーブル大司教のように第2バチカン公会議の教父の中で、第2バチカン公会議直前の全世界の教会の現状を直接目で見てものを言える司教たちは数えるほどしかいなかった。)
1962年〜65年 第2バチカン公会議の最中に、聖伝を守ろうとする教父たち250名ほどで、教父国際会 (Coetus Internationalis Paturm) を作り、革新派のヨーロッパ協定 (Alliance europeenne) 派の司教、神学者たちに対抗する。
1967年10月21日 司教のシノドスで、ブニーニ神父による「規範ミサmissa normative」(新しいミサの前身)が発表されると、ルフェーブル大司教は聖霊修道会士ジェラルド・フィッツジェラルド神父の「規範ミサについて」と言う論文を取り寄せそれに手を加えて印刷し、10月24日の総会までにシノドス参加の司教たちに配布する。ルフェーブル大司教のこの影響で多くのシノドスの教父たちは、「規範ミサ」を受け入れなかった[1]。10月26日の投票で、180名の教父のうち賛成71、反対43、保留62であった。
1968年12月 世界中の修道会の総長の集いの際にブニーニ神父が「規範ミサ」について説明する。「ブニーニ神父は気だてよく、私たちに「規範ミサ」とはいったい何なのかを説明してくれました。彼は、これを変えて、あそこを変えて、別の奉献文を付けて、典文(カノン)を選択することが出来るようにして、聖体拝領の祈りを簡略化して、ミサの始めにはいろいろな選択肢を付けて、ミサをいろいろな言葉で立てることが出来るようになる、等とまくし立てました。私たちは顔を見合わせて「まさか、無理な話だ!」と言いあったものです。話を聞いていると、まるであたかもブニーニ神父以前には教会にミサというものが存在していなかったかのようでした。ブニーニ神父は自分の作り上げた「規範ミサ」を新しい発明発見であるかのように話していました。個人的な話ですが、私は自分と意見を同じくしない人に反対意見を述べるのに普通ならさして困難を感じることはないのですが、この時ばかりは非常に動揺し、何も言葉を口にすることもできませんでした。一言も言葉を出すことが出来なかったのです。今私の前にいるこの男にカトリック典礼、ミサ聖祭、秘蹟、聖務日課、私たちの全ての祈りが全て任されているなどということは許されないことだと思っていたのです。私たちは、どこに行くのか、教会はどこに行こうとしているのか、とばかり思っていました。それでも2名の総長様には立ち上がる勇気がありました。このうちの一人はブニーニ神父にこう質問しました。「積極的なミサへの参加とは、肉体的な参加とは、声に出して祈ることですか、それとも霊的な参与のことですか。それはともかく、神父様は信徒のミサへの参加についてたくさんお話をして下さいましたが、信者の与らないミサというのはこれからはあってはならないかのようです。何故かというと、あなたのミサは全て信者が参加することを前提に作られているからです。私たちベネディクト会士は、信者が参加しないミサを立てています。私たちの私唱ミサに与る信徒がいないのですから、私たちは今後も私唱ミサを立て続けるべきなのでしょうか?」 私はブニーニ神父が何と答えたかをそのまま繰り返して申し上げましょう。私はその言葉に衝撃を受けたので、それが今でも耳の中に残っています。「本当のことを言うと、そのことを考えていませんでした。」ブニーニ神父はこう言ったのです!その後で別の総長が立ち上がってこう言いました。「神父様、神父様はこれを廃止して、あれを廃止して、これをあれと取り替えて、祈りはもっと短くして、等とおっしゃいました。私はあなたの新しいミサは10分かそこら、15分ほどで終わってしまうような感じを受けました。しかし、教会のかくも偉大な行為にとって、そんなに短いものは相応しくありませんし、尊敬を欠くものだと思います。」すると、ブニーニ神父はこう答えました。
「ミサにはいつでも何かを付け加えることが出来ます。」これは、本当にまじめな話のなのでしょうか?私は、この耳で聞いたのです。[2]」
1968年6月 聖霊修道会の総会は、カトリック教会の聖伝の教えに反したリベラル派が多数派を占め、聖霊修道会の崩壊に協力するよりは総長職を辞職することを選び、辞職する。リベラル派はいかなる犠牲を払ってでも、修道会を自分たちの思いの通りにしようとし、ルフェーブル大司教は総長としてたとえ彼らに抵抗してもただ分裂の躓きを与えるだけだと判断したからである。ルフェーブル大司教は"Je les ai laissés à leur collégialité"(私は彼らに彼らの言う「団体主義」のなすがままにさせた。)と言う。辞職の後は、ローマのVia Monserratoにあるアパートに引退し、教会のために祈ることによって余生を送ろうとする。
1969年4月 新しいミサの式次第が発表されると、ルフェーブル大司教の下で12名の神学者たちは「新しいミサ式次第の批判研究」を作る。6月にオッタヴィアーニ枢機卿・バッチ枢機卿は自分たちの名前でこれを教皇パウロ6世に次のように提出する。「この新しい式次第に新しく導入された要素を私たちが考察するとき、これらの新しい要素は、暗にそう解釈できるところと、当然そう解釈すべきであることと、様々な解釈が可能です。しかし、新しい司式はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。あの当時に決定的に定められた典礼様式のカノンは、この[ミサの]神秘の完全性に対して向けられた如何なる異端に対しても越えることのできない防御の壁を作りました。」
ルフェーブル大司教は、政務次官(当時)アムレト・チコニャーニ枢機卿 (Cardinal Cicognani) を訪問し、新しいミサについて残念がる。「そこで私自身が出向いて、政務次官であったチコニャーニ枢機卿と会い、こう申し上げました。「枢機卿様、このようなミサをそのまま通過させることは出来ないはずです。それは、あり得ません。この新しいミサとは一体何ですか?こんなものは教会における革命、典礼の革命ではないですか。」 チコニャーニ枢機卿は、教皇パウロ6世の政務次官でしたが、頭を抱えて私にこう言ったのです。「おぉ!モンシニョール、私はよく知っています。私はあなたと全く同じ意見です。でも、私に一体何が出来るというのでしょうか?ブニーニ神父は教皇様のお部屋に自由に入って自分の望むものを教皇様に署名させることが出来るのです。」これを私に言ったのは、政務次官の枢機卿様だったのです!良いですか、教皇様の次に高位な役職についておられる枢機卿様が、ブニーニ神父の下にいるです。ブニーニ神父は教皇様の所にいつでも入ることが出来、自分の欲しいままにサインをさせることが出来たのです。[3]」
1970年11月1日 聖ピオ10世司祭兄弟会創立。
スイス、フリブールのシャリエール司教から正式な認可を得る。
1970年〜1981年 聖ピオ10世司祭兄弟会の初代総長
1974年6月23日 ローマで聖ピオ10世会が「問題」となり、会合が開かれる。
1974年11月11-13日エコンの神学校に教皇視察団が訪問する。しかし、視察団の異端的な発言は神学生たちを躓かせた。
1974年11月21日 聖伝のローマを支持するという宣言をする。「私たちは心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがります。etc」
1975年2月 1974年の宣言のために3人の枢機卿の前で「裁判のまねごと」(ルフェーブル大司教の1975年5月30日の表現)を受ける。
1975年5月6日 スイスのマミー司教は教会法に反して一方的に聖ピオ10世会の廃止を通達する。
1975年5月21日 ルフェーブル大司教はスタンパ枢機卿に聖ピオ10世会廃止に対して手紙を書く。
1975年5月25日 ルフェーブル大司教、聖ピオ10世会の聖年ローマ巡礼団を引率する。
1975年5月31日 ルフェーブル大司教は教皇パウロ6世に最初の手紙を書く。
1975年6月5日 ルフェーブル大司教はローマの教会裁判所(Signatura Apostolica)に訴える。
1975年6月10日 政務次官のヴィヨ枢機卿(Cardinal Villot)の介入により、ルフェーブル大司教の訴えは受理されず基本的な裁判を受ける権利を拒否される。ヴィヨ枢機卿は聖ピオ10世会を破壊すると主張していた。
1975年6月14日 ルフェーブル大司教、再度裁判を求める。
1975年6月29日 教皇パウロ6世はルフェーブル大司教に最初の手紙を書く。
1975年6月29日 エコンで司祭叙階式執行される。
1975年9月8日 教皇パウロ6世のルフェーブル大司教への第2の手紙
1975年9月24日 ルフェーブル大司教の教皇パウロ6世への第2の手紙
1976年4月21日 ベネリ枢機卿のルフェーブル大司教への手紙
1976年6月12日 ベネリ枢機卿、スイスのベルンにいる教皇大使に手紙を書き、ルフェーブル大司教に司祭叙階を中止させるように指導する。
1976年6月22日 ルフェーブル大司教の教皇パウロ6世への第3の手紙
1976年6月25日 4日後に控えた司祭の叙階式を中止するようにベネリ枢機卿がルフェーブル大司教に次のように手紙を書く。「もし彼ら(司祭叙階の候補者たち)が善意であり、公会議後の教会に本当に忠実に司祭の職務をする準備が良くできているのなら、彼らのために良い解決策を見つけよう。Etc」
1976年6月29日 エコンで司祭の叙階を決行する。叙階式の説教でこう話す。「もしかしたら、明日、新聞紙上に、私たちを排斥する記事が載ることでしょう。全くあり得る話です。それは今日のこの叙階式のためです。私自身、多分に聖職停止の罰を受けることでしょう。これらの若い司祭たちは、「不規則irregularitas」の罰を受け、原則的にはミサ聖祭を捧げることが出来ないとされることでしょう。あり得ることです。それなら、私は聖ピオ5世に訴えます。聖ピオ5世はその勅書のなかで、永久にいかなる司祭もこのミサを捧げるためにいかなる教会法上の罰を受けることが出来ない、と言っているからです。」
1976年7月1日 バチカン報道局は、ルフェーブル大司教の「聖職停止」を発表。
1976年7月6日 バッジオ枢機卿のルフェーブル大司教への手紙、「聖職停止」を説明する。
1976年7月17日 ルフェーブル大司教の教皇パウロ6世への第4の手紙
1976年7月22日 司教聖省長官からルフェーブル大司教への「聖職停止」の通達
1976年7月29日 「聖職停止」の通知を受けた後に記者会見でルフェーブル大司教は次のように発表する。「新しいミサを捧げ、新しい秘蹟を執行し、新しい教えを説教することが私に禁止された。…今後、もはやカトリック教会ではなく、公会議後の教会に従い忠実ではなければならなくなりました。…私たちは公会議後の教会によって、公会議後の教会のための「聖職停止」を受けました。私たちはこの公会議後の教会に属そうとは思いません。この公会議後の教会は離教の教会です。何故なら永遠のカトリック教会と断絶しているからです。この公会議後の教会には新しい教義と新しい司祭職と新しい制度と新しい礼拝儀式があります。そしてこれらは全て公式な決定的な教会公文書によって何度も教会が排斥したものなのです。…だからこそ公会議後の教会の創立者たちは、過去の教会があたかも存在していなかったかのようにこれに言及せずに、今日の教会に従順であるようにあくまでも強調するのです。…このような誤謬を肯定する教会は同時に離教的であり異端的です。この公会議後の教会はカトリックではありません。…カトリック信仰の規範は聖伝なのです。」
1976年8月15日 教皇パウロ6世のルフェーブル大司教への第3の手紙
1976年9月16日 ルフェーブル大司教の教皇パウロ6世への第5の手紙
1976年10月11日 教皇パウロ6世のルフェーブル大司教への第4の手紙
1976年12月3日 ルフェーブル大司教の教皇パウロ6世への第6の手紙
1979年9月23日 ルフェーブル大司教は、パリで司祭叙階50周年を祝う。その説教でこういう。「至聖三位一体の栄光のため、私たちの主イエズス・キリストへの愛のため、いとも聖なる童貞マリアへの信心のため、教会を愛するため、教皇様を愛するため、司教たち・司祭たち・全ての信者たちへの愛のため、この世の救いのため、霊魂たちの救いのため、私たちの主イエズス・キリストのこの遺言を守って下さい。私たちの主イエズス・キリストの犠牲を守って下さい。永遠のミサを守って下さい!そうしたら、皆さんはキリスト教文明が花開くのを見るでしょう。この世のためのものではない文明が、カトリックの国へと導く文明が開花するのを。そして、このカトリックの国とは、キリスト教文明が準備する天国でのカトリックの国のことです。」
1983年1月25日 新「教会法」が発布される。この中で第2バチカン公会議の精神を取り入れて教会を「救いの普遍的な秘蹟」と提示し、教会は「天主の民」であり、位階制度が、頭と一致している司教団の上に建てられたものとして現れているので、この後、ルフェーブル大司教はこの新しい「教会論」をいろいろな講演で告発する。
1983年11月21日 ルフェーブル大司教は、ブラジルのデ・カストロ・マイヤー司教と共に、新しい教会法に取り入れられた新しい「教会論」に対し、教皇ヨハネ・パウロ2世に公開書簡を送る。「聖なるカトリック教会の司教、使徒の後継者として、かくも多くの霊魂達が全世界で、教会の教導職によって定められ常にどこでも教えられてきたその信仰と道徳の中に留まろうと望んではいるものの、残念ながら方向を狂わされているのを見て私たちの心は動転しています。このことに口を閉ざしているとしたら、私たちにとってこれらの悪しき仕業の共犯になってしまうように思えます。ですから、私たちが過去15年間に取ってきた個人的な態度・足取り[でも足りなかったこと]を考えると、聖下に公に介入しなければならない義務を感じます。」
1986年 復活祭、6月29日 ルフェーブル大司教は説教の中で、予定されていたアシジでの諸宗教祈祷集会に反対する。
1986年8月27日 ルフェーブル大司教は、数名の枢機卿たちに手紙を書いてアシジの集会を阻止するように要請する。
1986年12月 ルフェーブル大司教はデ・カストロマイヤー司教とともにアシジの集会を告発する共同宣言をする。
1987年6月29日 ルフェーブル大司教は、叙階式の説教中で、聖伝を守る司教を聖別する必要があることを発表する。ルフェーブル大司教の『彼らは主の王位を奪ったIl L’ont decouronne』が出版される。
1988年6月30日 ルフェーブル大司教は、デ・カストロマイヤー司教と共にエコンで4人の司教を聖別し「生き残り作戦」を決行する。
1991年3月25日 帰天。聖ピオ10世会総長(当時)のシュミットバーガー神父は葬儀ミサの時の説教でこう言う。「ルフェーブル大司教は聖座と司教たちが自由に使うことの出来る小さなエリート集団を作りました。しかし、ここで正確を期すためにこう付け加えるのを私に許して下さい。このエリート集団は第2バチカン公会議の誤謬とそこから流れ出る改革に対して、いかなる妥協もいかなる譲歩も排除してはじめて自由に使うことの出来るものとなります。教会破壊の精神が司教館やローマ聖省にある限り、いかなる協調も同意もあり得ません。私たちは教会を建設するために働きたいのであって、それを破壊するために働きたくはありません。…『この良い業のために、あなたたちは自分の兄弟を石殺しにする』(ヨハネ10:32)この時、私たちはローマと司教様たちに懇願します。忌まわしいエキュメニズムと社会の世俗化、天主への礼拝のプロテスタント化をどうかうち捨てて下さい。そして教会の聖伝に立ち戻って下さい。」
参考文献
http://www.sspxasia.com/Documents/Archbishop-Lefebvre/Apologia/index.htm
http://www.sspx.org/SSPX_FAQs/appendix_iii_history_1.htm
[1] A. Bugnini, La Riforma liturgica , ed liturgiche,
[2]「近代主義の教会の中への侵入の略史」マルセル・ルフェーブル大司教の講演の記録、1982年 モントリオール(カナダ)にて
[3]「近代主義の教会の中への侵入の略史」マルセル・ルフェーブル大司教の講演の記録、1982年 モントリオール(カナダ)にて
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