カトリック教会と第二バチカン公会議
フランツ・シュミットバーガー神父
今日教会で起こりつつあることをよく理解するためには、13・14世紀にまで、人間中心主義(humanism)とルネッサンスの時代へ戻り、プロテスタント宗教改革、自由放埒主義の時代を見、さらにこの自由放埒の精神がその王国を至る所に、人々の心に、社会に、拡張した経過を見、そして対にはマルクス主義革命とそれがこの世にもたらした不幸な結果を振り返らねばなりません。
1945年以降の教会
しかし、今回私は第二次世界大戦後の教会の状況を見ることから始めたいと思います。この世界大戦では物質的だけでなく、霊的・道徳的に非常に大きな破壊を受けました。戦後にはやはり非常な復興期がありましたがそれは特に外的なものでした。教皇ピオ十二世の統治下においてすべてはうまく行っているかのように見えました。教会は栄え、プロテスタントの国では多くの回心がありました。しかし他の国々では何らかのよどみがあったと言わざるを得ません。召し出しの数の減少。聖職者の堕落。司祭そして司教様たちさえ、混乱しどうしてよいかわかりませんでした。この世界の問題に、技術と自然科学においてどんどん進歩するこの世の問題にどう対処してよいか分からなくなっていたのです。
このような状況において、このような問題に対する真の解決とは言ったいなんだったのでしょうか。その真の解決策とは、巨大なそして非常に緊急の呼びかけをカトリック信者らに、カトリック司祭、聖職者らにすることでした。聖性の源に立ち戻れと。我らの主がその御血において確立されたいろいろな制度に立ち返り、それに新しい生命を与えよと。すなわち、主の確立されたカトリック家族、カトリックの婚姻、カトリック学校、カトリック国家、修道院、神学校、カトリック司祭職、等などに立ち返れと。霊魂において使徒精神を強化し、もしできることなら我らの主の聖福音を述べ伝えるにあたり、主のみ国を広めるためにマスメディアを使用することも考えられたのです。
しかし、教会当局は非常にしばしば反対の方法を選んだのです。彼らは自分の使命や自分自身のアイデンティティーをさえ疑問視しだしたのです。自己批判や自分自身を問いただすことになり、教会の天主起源の構造やその本質さえも疑いだしたのです。そして完全に世俗化してしまったこの世のただ中において、教会はその立場を保持し得ないとさえ言い出すのです。「教会も変わらなければならない!」と。
陰鬱の予言者
スイスの還俗化したイエズス会神父、ハンス・ウルス・ファン・バルタザー(Hans Urs van Balthasar)は1950年代始めにこう言いました。「カトリックの砦は解体撤去しなければならない。」
ところで、このカトリックの砦とは一体なんなのでしょうか。それは、カトリック文化における社会組織のこと、全カトリック文明のことなのです。この中には家族、結婚、特にカトリック教育制度とカトリック国家が含まれています。バルタザーは、「カトリックの砦は解体撤去しなければならない。」と言いましたが、その意味は、これらのすべての制度が破壊されなければならない、と言う意味だったのです。ラッチンガー枢機卿は、1982年に出版された「神学的諸原理」と言う本の中にウルス・ファン・バルタザーの言葉に言及して「実にカトリックの砦を解体撤去することは義務であった」と言っているのです。
現代の聖書解釈学はますますプロテスタントの神学者であるブルトマン(Bultman)によって特に影響を受けています。この人は、完全な理性全能主義者(rationalist)で懐疑主義者です。阻止で聖福音をすべての部分を否定している人です。この人の影響は司祭らの中で、特に神学校で勉強中の将来の司祭、司祭志願者たちの中まで及んでいるのです。
ドイツのイエズス会の司祭であるカール・ラーナー(Karl Rahner)は匿名のキリスト者ということについて話始めた人です。この人によれば、だれもがキリスト者だということです。そのため彼の言葉によって、多くの人達が、従って誰もが多かれ少なかれ自動的に救われているのだと思うようになりました。
教会の改革
教会当局は、教会の改革について語り始めましたが、このことは心と霊魂の改革のこと、本当の内的回心のことではありませんでした。この改革で意図していたことは、私たちの天主なる救い主、教会の創立者であるイエズスによって据えられた教会の構造そのものにおいて変化を加えること、すなわち、本当の革命を意図していたのです。
教皇ヨハネ二十三世はそこで「現代化」(Aggiornamento)という合言葉を持ち出しました。そしてこう言うのです。「私たちは教会を現代化しなくてはならない。現代世界の新しい生活の条件に合わせなければならない。私たちを現代人に受け入れてもらうためだ。」と…。もちろん皆さんは現代人とはどのようなタイプの人かを知っています。現代人は無神論者で、どんな権威も法をも受け入れない人で、自由を好み、自己中心で自分勝手、官能によって生き、信仰や霊的能力を生かさない人、物質中心でそのことしか考えない人のことなのです。
しかし教皇様は、教会はこの現代人に奉仕をする必要があると考えられ、陰鬱の預言者たちが言うことを指摘され彼らに賛同されないことを表明されたのです。「我々はもって積極的で楽観的な見解を持たねばならぬ。」そこで、彼は公会議を始めるにあたって1962年10月11日にこう説教されたのです。
「毎日の私たちの司牧において、残念なことにこういう声をしばしば聞かねばならない。彼らは熱心に燃えてはいるが控えめと適度の感性をあまり持ち合わせていない。この現代において彼らは不正と荒廃しか見えない。彼らは私たちの時代は過去と比べて悪くなっていると言いつつ、彼らは、歴史から学ぶことなどないかのごとくふるまっている。しかし歴史は生活の教師である。彼らは以前の公会議の時代にはすべてがキリスト者の理想と生活にとって、また事故の宗教の自由にとって完全なる勝利であったかのごとくふるまっている。私たちはこの陰鬱の預言者たちに賛同してはならない。彼らは常にこの世の終わりがすぐそこであるかのように不吉なことばかり予言しているからだ。」
現代の誤謬
「私たちはこの陰鬱の預言者たちに賛同してはならない。」と教皇ヨハネ二十三世は言われました。
第二バチカン公会議以前の時代には、そして公会議の真っ最中には、二つの非常に大きな誤謬が氾濫していました。このことは既に前世紀のスペインの哲学者であったドノソ・コルテス(Donoso Cortes)と言う人によって指摘されています。コルテスはこう書いています。「一つの誤謬は天主に関するものであり、もう一つのは人間に関するものである」と。
天主に関する第一の誤謬は、天主様は絶対ではないとすることです。それは天主様の絶対の主権、その御稜威、その変わることのない実体、天主がこの世界に現存したまうこと、また人間の歴史に、個人的また民族の生活において、お現れになったこと、等などを打ち捨てることを意味しています。この誤謬によると、天主様は哲学的・理神論的な存在であって、天主はこの世を創造したがその後は自分は身を引き雲の中に隠れてこの世をほったらかしにしてこの世界とは一切関係を持たないのだ、と言っています。
第二の誤謬は人間に関するもので、第一の誤謬と同じく大変危険なものです。これによると、人間は原罪なくして生まれて来た、「無原罪」である、と言うのです。私たちの霊魂は傷をおわされず、悪に汚されずだめにされず、悪に染まらず、私たちはすべて善いのだと、そして人間は贖いなど必要としていないのだと言うのです。人間に必要なものは何かとしたらもしかしたら教育ぐらいだろう、と言うのです。しかしそのことは人間は主の十字架を必要としていないということを意味するのです。ですからこの贖いの必要のない人間にとってミサ聖祭の贖罪の性格などあってもなくてもよくどうでもよい不必要なものなのです。この誤謬によれば、人は改悛の必要もなく、自己否定の必要もなく、苦行する必要もなく、自分において古いアダムに死ぬ必要もなく、天主の聖寵など必要もないとするのです。そこでこれらの誤謬を信奉する人は、ルソーのあの有名な言葉にたどり着くのです。「我々は純粋な自然状態に戻りさえすればよいのだ。そうすればすべての問題は解決されそべては偉大となる」と。
このことが教育において適用されると、教育において権威というものが否定されるのです。罰することもできなくなるのです。教師、あるいは教育者の仕事・使命・義務というものはその時、子供の中にあるよい素地を発展させるだけに過ぎなくなってしまうのです。そして悪い傾向や悪い情念を押さえるということが(そんなものはないのですから!)できなくなってしまうのです。
このことが人間社会全体に適応されると、私たちは敵など存在しないのだと信じ、受け身主義へと自分をなびかせなければならなくなります。この世界には悪などないのだ!ただ単に政治的・外交的・心理的誤解だけがあり、それもいつかは忍耐のうちに解決されるのだ!と信じざるを得なくなります。こういう人々は一般的に、無限の技術進歩や、自然科学の進歩、心理学や他の人文学の進歩を夢想することになります。こうして彼らはすべての人の際限のない救いを夢見て、この地上の楽園をはかなく夢想するのです。
第二バチカン公会議
このような全体的な状況とこの幻想の中で、第二バチカン公会議が生まれたのです。私はこの公会議を、もし全教会史最大のものでなかったとしても、今世紀最大の憂慮すべきものと表現したいと思っています。そしてそのまず最初から公会議は確実に3つの巨大な罪を犯しました。
第一の罪は、この公会議がカトリックのいかなる真理をも本当に定義づけず、同時に真理に対立している誤謬を排斥しなかったことです。
この公会議の第二の罪は、公会議があいまいな観念、あいまいでどうにも取れる声明・命題を採用したことです。そのため命題のいくつかは絶対的にそれぞれ矛盾しあっています。後でその例をいくつか出します。
公会議の第三の大罪は、それが異端に非常に近いいくつかの教義を確立したことです。
では、今からこの公会議の5つの公文書を取り、私が今しました弾劾が本当であることが、実に公文書自体の内において明らかにしてみたいと思います。
私たちはですから、
エキュメニズムに関する教令(Unitatis Redintegratio)
教会憲章(Lumen Gentium)
キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(Nostra Aetate)
信教の自由に関する宣言(Dignitatis Humanae)
現代世界憲章(Gaudium et Spes)
を取り上げることにしましょう。
この講和は皆さんにとって霊的・知的努力を大変要求するものだ、ということは私にもよく分かっているつもりです。この努力なくして異なる発展を理解することができません。しかしこれらの誤謬の根元を皆様に発表することがその為に必要だと考えています。なぜならこの誤謬の根源が、教会を公会議後のすべての乱用と衰退へと導いたからです。そして対には教会の完全なる破壊へと導いているからです。
1− エキュメニズムに関する教令(Unitatis Redintegratio)
ではまず、エキュメニズムに関する教令(Unitatis Redintegratio)に目を通しましょう。カトリック信者にとって、天主とイエズス・キリストとカトリック教会との間には分かち難く結ばれた一致があることは明らかです。実に、天主御父が御子を送り、御子は贖いのみ業のために人性を取り、この人となった天主御子が目に見える教会を創立し、自らはその教会の頭であられるのです。主は一つの教会を創造するのですが、我らの主は絶対で唯一であるため、我らの主は本当に天主、唯一の真の天主であるため、教会もやはりただひとつしかないのです。そしてこの教会の創立者かつ師である我らの主が絶対で唯一であるように、教会も絶対で唯一なのです。聖パウロはエフェゾ人への手紙の中でこう言っています。「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ、神は一つで、すべてのものの父であり」(4:5)と。
この教会は諸国の中の印なのです。教会は生ける天主の神殿なのであり、屠られた小羊の花嫁なのです。教会は天から地上に立ち降りた新しいエルサレムなのです。教会は本当にエンマヌエル、すなわち、天主我らとともにまします、なのです。そうです、人間性の中に天主の性がましますのです。教会は全く我らの主の神秘体、それゆえにこそ、教会は天主により立てられたもの、我らの主が天主であられ、主の言われることなさることすべてが天主のみ業であり、主の創立なさったものはすべて天主が創立なさったものなのです。
したがって、教会はその生命、その生活において、その教えにおいて、その礼拝、その統治において、天主によって助けられているのです。ですから教会は、より良い社会世界を築くため、この世における進歩のため、より良い文化等などのためといえど、他宗教と身を交える使命をもらったことはありませんでした。教会の使命は主が昇天される直前に言われた言葉に表されています。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、わたしが命じたことをすべて守るように教えよ。」(マテオ28:19、20)また、「あなたたちは全世界に行ってすべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる。(マルコ16:15、16)
ところが、エキュメニズムに関する教令(Unitatis Redintegratio)は、わたしたちに教会に対する全く別の理解をさせてしまっています。この教令は教会の使命とその他の宗教との関係について全く別の見解を示しています。まず、この教令は「それぞれの教会」について語っているのですが、実はその表現自体が大変異端に近いのです。
もちろん公会議以前にでさえ既に、それぞれの教会、という概念は存在していました。それぞれの教会、と言ったときに何を意味していたかというと、司教様とその聖職者の回りの地方のそれぞれの教会、と言うことを意味していたに過ぎないのです。例えば、パリの教会、ウェストミンスターの教会、ケルンの教会、ローマの教会、東京の教会等など、信者たちに取り囲まれた司教とその聖職者の事だったのです。しかし、カトリック教会以外の諸団体に「それぞれの教会」と複数形で使い、適応したことは一度もありませんでした。
第二バチカン公会議はこの表現に新しい意味を付け加えてしまっています。
「われわれは、これらの別れた諸教会と諸教団には欠如があると信じているが、けっして救いの秘義における意義と重要性を欠くものではない。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会に湯練られら恩恵と真理の充満に由来する。(3)」
教会の外に救いなし
他の宗教にしたがっている人でもある条件の下で救われ得る、ということは明らかなことです。どの条件の下かと言えば、彼らが打ち勝ちがたい誤謬のうちにいる場合です。もし彼らは自分の最善を尽くそうと努力しているなら天主様は助力の聖寵をお与えになるでしょう。もし彼らがこれらの聖寵に忠実でこれらの聖寵と共に働くなら、天主様は彼らに成聖の聖寵をついにはお与えになり、かくして彼らが救われるかも知れません。しかし彼らが救われるとしたら、それは常に個人としてです。たとえ彼らが他の諸宗教の中で救われるとしても、彼らは決して他の諸宗教によって救われるのではないのです。
誤謬が真理の王国へと我々を導いてくれるのは不可能なのです。天主がこの地上に降臨され、托身され、我々のうちに現れ、一つの教会を創立し、それによって自分自身を継続させ、自分の身代わりである教会を立て田野です。これが彼の教会、彼の花嫁なのです。これらすべてをした天主が、自分の創立したのではない偽りの宗教によって誰かが救われ得るようにした、と言うのは不可能なことです。なぜなら主は自分のことについてこう言われたからです。「わたしは道であり、真理であり、生命である。わたしを戸をらずに誰も父のもとには、行くことができない。」これはご自分の教会についても当てはめることができます。
これらの偽りの宗教は天主によって創立されたのではなく、むしろ人間によって、そして非常にしばしば悪魔によって息吹を受けたものです。そうですからもしも万一、誰かがほかの宗教の一員としてあるいはほかの宗教に属していながらも救われ得るとしたら、この人は常に必ずカトリック教会によって、我らの主の十字架によって、主の犠牲とその祈りによって、救われるのです。ですからこの人はほかの宗教によって救われるのではなく、ほかの宗教にもかかわらず救われるのです。
ですから、「キリストの霊(すなわち聖霊のこと)はこれらの教会と教団を『救いの手段として』使う」ということはほとんど異端的なのです。そして私はこの一文は公会議の文書の中で最悪のものの一つだと思っています。これは今日までの教会の教えに全く反しているからです。これは以前に教えられてきたこと、聖書の語ること、教会教父の教え、神学者や以前の公会議、以前の教皇たちがいつも言ってきたことに絶対的に反しているのです。完全に反対なのです。
宗教統一の集い
一度、これらの宗教も何らかの意味がある、救いにとって重要な役割をもつと言うことが確立されると、後はカトリック信者もこれらの他の宗教と共に働くように、彼らとともに協力し、できれば彼らとともに祈るようにと招かれるわけです。これについては公会議が正確に述べています。
「またそれら教団は…なお許された範囲内で、心を一つにして祈るために集まる。」(4)
そしてその少し先にはこう言います。
「ある特別な状況、たとえば「教会一致のために」公の行われる祈りや諸教会合同の会議において、カトリック信者が別れた兄弟とともに祈ることは、許されるばかりでなく、むしろ望ましいことである。このような共同の祈りは、確かに一致の恵みを求めるための効果的な手段であり、カトリック信者と別れた兄弟とを今でも結び合わせているきずなを正しく表現するものである。「私の名によって2・3人が集まっているところに、わたしもいる」(マタイ18・20)。(8)
これらの祈りについて私たちは何というべきでしょうか。第一に、他の宗教の信者の個人の祈りは、その人たちの内的な心のもちかた次第で、天主様にとって嘉(よみ)されうるものになりうる、と言っておかなければなりません。しかし他の宗教の祈りは、他の宗教として、天主様に決して嘉されることがありえないのです。なぜなら唯一の天と地の仲介者がおられるからです。実に我らの主は“semper vivens ad interpellandum pro nobis”:主イエズス・キリストは常に生きご自分の教会のためその選ばれたもののためにとりなしておられる、と聖パウロは言っています。(ヘブライ7:25)
ですから他の宗教の祈りは、他の宗教として、実りのないものなのです。他の宗教の祈りは効果がなく、したがって信者がこのような別の宗教の共同の祈りの集会に参加するのは有害なのです。なぜ有害かというと、この祈りは無駄でかつ多くの混乱をもたらすからです。実際にこのことを続けて行くことによって数知れない弊害が出てくるでしょう。そしてそのことは結局すべての宗教を同じレベルにおくことになるのです。
今日ではカトリックがプロテスタントの会食に参加しプロテスタントがカトリックの御聖体拝領を受けにくると言うのはよく見かけることになってしまいました。諸宗教の集いでカトリックの司祭がパンに対して聖変化の言葉を唱え、プロテスタントの牧師がワインに対して変化の言葉を唱えるというのをよく耳にします。このようなことが今行われるようになってしまったとしたら、その責任は公会議のこれらの文章にあります。
だれの責任なのか
公会議がキリスト教徒の中の分裂の原因をただ単にカトリックだけのせいにしているのを読むのは驚くべき事です。カトリック信者が必ずしも天主の十誡に常にしたがって生活しているのではない、と言うのは明らかです。カトリック信者が必ずしも常に洗礼の約束に忠実で、自分の唱える信仰宣言にしたがって生きているのではない、とは明らかです。しかし分裂や分派の原因を彼らになすり付けるのは間違っています。
実際に、ペトロの座から、私たちの祭壇のいけにえから、カトリック司祭職から自ら離れた方に過失と責任があるのです。
このことは大変重要な点です。カトリックを攻撃する人達はいつも客観的秩序と主観的秩序とを混乱し一緒にするのです。他の宗教とその個人的なメンバーとを一緒にするのです。真理の知識(カトリックの教義)と、この真理の実践(信者の道徳生活)とを一緒にするのです。
彼らは、こう言います。別の宗教でも大変親切な人とかソーシャルワークに参加する人、友好的でいつもニコニコしている人がいる、と。そうかも知れません。ではこれから何が言えるのでしょうか。だから何だというのでしょうか。全くなんでもないのです。確かにカトリック教会の中には自分の信仰を真剣に捉えまじめに考え神社らしくそれを大切にするということをしないひとがいます。だから何だというのでしょうか。彼らは確かに悪いカトリック信者です。ただそれだけです。カトリック信仰やカトリック教会に対する根拠のない中傷はやめてください。それは全くあり得ません。
では公会議の文章の中で互いに矛盾しあっている声明や文章の例をお見せします。次の2つの文章がこのように並んでいます。
1)「カトリック信仰を表明する方法と順序は、けっして兄弟との対話の妨げとなってはならない。」
2)「教理の全体を明らかに述べることは絶対に必要である。」(11)
もし第1の文章を選ぶとしたら、対話の妨げとなるものはすべて取り除かねばなりません。では対話にとっての妨げとは何なのでしょうか。プロテスタントが拒否するもの全てです。プロテスタントは一体何を拒否するのでしょうか。平信徒とは異なる司祭職の存在、ペトロの首位権、ミサのいけにえの性格、全実体変化、諸聖人の通功、聖母マリアに関する教義、煉獄、等など。ですからもし彼らと対話をしたいのなら、これらの妨げを取り除かねばなりません。公会議はこう言います。これらについて沈黙を守れと。私たちはこれらをあたかもたいした真理ではなく、二次的であって、重要ではなく省略可能だと考えなければなりません。
ところで、次の文章はこう言います。「教理の全体を明らかに述べることは絶対に必要である。」では、一体だれが正しいのでしょうか。公会議後に進歩主義者がこの公会議文章を読んだとしたらこういうことでしょう。「ほらご覧ください、公会議は、私たちが対話を妨げることに対して沈黙を守らねばならないと言っているではないですか。」もしも保守主義者がこの文章を読むとしたらこう言うでしょう。「いや、そんなことはない、教理の全体を述べなければならないのです。」では、一体だれが正しいのでしょうか。両方ともです。両者が公会議に言及しうるのです。このことで分かるように、公会議の文章そのものに、どれほどの分裂と誤解そして困惑があらかじめ仕組まれていたのです。
2− 教会憲章(Lumen Gentium)
この文脈において、公会議の別の文章を読んでみましょう。教会に関する教会憲章に目を通しましょう。この中には、公会議文章中恐らく最も危険で有害な文章が載っています。ラテン語のテキストにはこう書いてあります。“Ecclesia Dei subsistit in Ecclesia Catholica"(8)この意味は、天主の教会はカトリック教会のうちに自存する、存在する、現実に形をもって実現している、ということです。
皆さんの中には、「そのとおり、全くそのとおりだ!」と言う方がおられるかも知れません。しかしこれは全ての真理からはるかに隔たったものなのです。全ての真理とは、真理を全て言うとしたら、“Ecclesia Dei est Ecclesia Catholica”つまり、天主の教会はカトリック教会である、です。もし天主の教会がカトリック教会のうちに存在する、と言ったとしたらそのとき2つの何かあるものを想定していることになります。天主の教会というものとカトリック教会という2つのものです。そしてこの2つが一緒になったのは全く偶然のことに過ぎない、と言うことを意味しています。
つまり、その言外には、天主の教会は現在の諸条件のもとではカトリック教会のうちに自存する、存在する、現実に形をもって実現しているのだが、もしかしたら将来には別の形式たりうる、もっと他に変わっているかもしれない、そして実に天主の教会は「(カトリック教会という)この組織のほかにも聖かと真理の要素が数多く見いだされ」たとえ全ての真理をもっていなくても、たとえわずかな真理の要素だけだとしても、他のさまざまな宗教によって分かち合うことができるのだ、と言っているのです。
公会議は既にこのことを考えているのです。ここにテキストを掲げます。
「この教会は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者及び彼と交わりのある司教たちによって治められる、カトリック教会のうちに存在する。しかし、この組織の外にも聖かと真理の要素が数多く見いだされるが…」(8)
そうですからここには真理が相対的であること、教会がその全き本質において相対的であること、が明らかに語られているのです。
聖パウロは人々が真理への愛を失うだろうこと、そしてそのために天主が彼らに偽りの霊を送られること、その霊によって彼らが欺かれるであろうこと、を語っています。(テサロニケ後2:10)このことは全くそのまま今の時代に起こっています。天主からの霊的天罰、霊の盲目と心の頑固さが、特に教会の指導者たちと人間社会の指導者たちの間に送られているのを目の当たりにしています。
3− キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(Nostra Aetate)
では今度は非キリスト教的宗教を見てみましょう。大さんに皆さんにお話ししたい文書は、キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(Nostra Aetate)です。これらの非キリスト教的宗教がいくらかの自然的真理をもっていることは明らかです。たとえば、目上を敬うだとか、かわいそうな人を助けるだとか、身のふるまいには賢くすべきだとか、行動のときには賢明にするだとか、です。またこれらの宗教のなかには、大変隠されてはいるけれども、天主様がアダムとエワにされた原初の啓示の名残であるいくらかの要素が時としてあります。第三に、これらの宗教は自分の中に時としてカトリック教会の教えを取り込んでいます。例えば、もしイスラムが一つの唯一の神を信仰宣言するとしたら、この信仰はキリスト教から取り入れたものです。
しかし、他方で、これらの非キリスト教的宗教は救いへと我々を導かないばかりか、かえって非常にしばしば真理を見いだす妨げとなる、聖霊に逆らうシステムである、と言わねばなりません。非常にしばしば非キリスト教宗教はその信奉者たちをがんじがらめに縛り上げ彼らがそれから離れるのを許さず、それを妨げるのです。イスラム教を見てください。イスラム教徒を改心させるのは非常に困難です。彼はそのシステム、その取り巻き、その党派、その一味、そのイスラム国家によってがんじがらめになっているのです。すし炉ジャングルや草むらに住んでいる異教徒を改心させる方がもっと簡単なのです。このように、他の宗教は救いへと導いてくれないばかりか、非常にしばしば偽りの父であるサタンが霊魂たちを誤謬と偽りのうちに、イエズス・キリストからはるか遠ざけておくシステム、なのです。
ヒンズー教
公会議は外の宗教についてなんと言っているのでしょうか。少し例を挙げてみましょう。
「ヒンズー教において、人々は、汲み尽くすことができないほど豊かな神話と、哲学場の鋭敏な努力をもって神の神秘を探求し、表現する。また、彼らは、あるいは種々の様式の修行生活、あるいは深い瞑想、あるいは愛と信頼をもって神のもとに逃避することによって、我々の存在の苦悩からの解放を求めている。」(2)
これは真っ赤なウソです。なぜならヒンズー教は唯一の天主を認めずその代わりに多くの偶像神があるからです。ヒンズー教徒らがいろいろな動物とか被造物、ありとあらゆるもの、特に聖なる牛を礼拝しているとは周知の事実です。ヒンズー教徒にとって牛を殺してはなりません。なぜならもしそうしたら涜聖になるからです。
彼らは、ネズミに対して特に特別の崇敬を払います。彼らにとってネズミは彼らの神々を運ぶ乗り物だからです。彼らは輪廻を信じています。そしてもし生きている間借金があり、一生のうちにそれを払い切れなかったとすると、将来動物に輪廻転生してそれを払い切らねばなりません。ですからネズミには触っても殺してもならないのです。もしかしたらそのネズミは私のおばあさんかもしれないのですから!!!
このことを信じることによって、大変恐ろしい結果が生じています。ヒンズー教では哀れみとか憐憫とかがありません。なぜですって? 何故かというと、惨めに貧困にあえぐ人々は自分のカルマ(業)を解いているのです。カルマとは自分の負債のことで、もし彼らが人間であるうちに払い切れないとしたら死後それを解かねばならないのです。ですから、もしだれかが道に苦しむ惨めな人々を助けたとしたら、それは彼らを助けたことにはならないのです。彼らの贖いが引き延ばされるだけですから。ですから、ヒンズー教徒の中にはキリスト教的な愛徳の業というのは全く存在しないのです。
インドを訪問している最中に最も心の痛むことは、恐るべき貧困と困窮のうちに人々が道端に生きかつ死んでゆくのを見て、ヒンズー教徒はこれらの可哀想な人々の横を過ぎ去り、指一本、視線さえも動かさない、ということです。ヒンズー教徒にとってこれは、自分の宗教にかなった全く当たり前で、全く理にかなっており、当然のことなのです。
仏教
公会議が第二に取り扱う宗教は仏教です。
「仏教においては、その種々の宗派に従って、この流転の世が根本的に無常であることが認められ、人が忠実と信頼の心をもって、あるいは完全な解脱の状態に至る道、あるいは自力あるいは他力によって最高の悟りに到達する道が教えられる。」(2)
まず第一にこれは全くカトリックの教えに反している、と言わねばなりません。私たちのカトリックの教えは、私たちは贖い主とその聖寵が必要なこと、それらが絶対的に必要であることを宣言します。そしてそれと同時に私たちだけではこの聖寵を得ることもできなければ、自分自らを贖うこともできないことを宣言します。さて、仏教徒は、…自力…によって最高の悟りに到達することができると考えているのです。自分を贖うのは全く自分の努力だけによる、としているのです。まず、これは明らかにキリスト教とは反対です。
第二に、仏教に最終の目的はニルナヴァ(涅槃ねはん)に入ることです。つまり全てから解放されて解脱し、無へと入ることです。それはちょうど人間がその人格を無と化すかのようなものです。これこそが彼らの全ての努力の究極目的です。
ところで、カトリック教は全く反対です。私たちの究極目的は何でしょうか。天主をお愛し申し上げることそして天主様の聖寵とその愛によって、私達自身が天主のごとくなること、私たちの霊魂が愛と愛徳に変えられること、これです。そうですから私たちの目的は作られ得ない愛徳・被造物であり得ない愛である天主ご自身と一致しそれに入ることなのです。私たちの究極目的は、最も崇高で最も満ちあふれた徳、人間の想像しえる最高の価値をもつ愛徳なのです。ところで、仏教においては全く反対です。
仏教においては、他のアジアの宗教におけるように、矛盾律が認められていません。このことは何を意味するのでしょうか。矛盾律が認められていないということは、あることが同時にありかつないと言うことが有り得る、と言うことを認めることです。しかしこれは道理に反しています。例えば、テーブルの上にコップがあるかないかであって、コップがありかつないとはありえません。
今このようなアジアの諸宗教がヨーロッパ、米国へとものすごい勢いで浸透しています。その理念、その実践、そのシステム、そのやり方、ヒンズー教の教師(グールー)、ヨガ、内観、瞑想、輪廻思想、これら全てを伴って来ているのです。これら全ては今日個人的あるいは公的生活においてものすごい影響力を伴って広まっているのです。彼らは特に、ニュー・エイジ・ムーブメントと呼ばれる世相を通して動いています。このニュー・エイジのシンボルは虹で、どこにでも何にでも侵入しているのです。このニュー・エイジ反して非常に危険なものです。何故なら、前世紀の神知論(theosophy)と今世紀の人知論(anthroposophy)とからきた密教の産物だからです。
イスラム
ではイスラムについて公会議は何と言っているでしょうか。
「教会はイスラム教徒をも尊重する。彼らは唯一の神、すなわち、自存する生きた神、哀れみ深い全能の神、天地の創造主、人々に話しかけた神を礼拝している。また、イスラム教の信仰がすすんで頼りとしているアブラハムが神に従ったのと同じように、神の隠れた意志にも全力を尽くして従おうと努力している。彼らはイエズスを神と認めないが、予言者として尊敬し、その母である処女マリアを称賛し、時には敬虔に彼女に祈る。彼らはさらに、よみがえったすべての人に、神が報いを与える審判の日を待っている。したがって、彼らは道徳的生活を尊び、特に祈りと施しと断食によって神を礼拝している。」(3)
このテキストを読んでどう思いましたか。きっと皆さんの中には、わたしたちとイスラムとの間にはただほんのわずかな違いしかないのだと思われた方もいるかも知れません。「彼らはイエズスを神とは認めてはいない、それは本当だけども、そんなことはたいして重要なことではないのさ! 彼らは我らの主を予言者と認めているし、聖母マリア様に信心があるし、彼らは最後の審判を信じているし、施しをする、道徳的な生活を送っている!問題がないんじゃないですか!」
しかしこの文章の中で沈黙のうちに葬り去られた、イスラム教徒が幾人もの妻と結婚できること、彼らにとっての天国の幸せとは、多くの妻をもらうことにあるということ、妻がいればいるほど天国での幸せも大きいと考えていること等には全く触れていないのです。
さらに、このテキストの中ではわたしたちに戦いを挑んでいること、わたしたちキリスト教徒を、我らの主を礼拝するがゆえに、冒涜者・偶像崇拝者と見なしていること、彼らが完全に絶対的に至聖なる聖三位一体を排斥拒否していることなどには全く触れていません。
このようなテキストの結果、ドイツの司教たちは全ての教区司祭に、イスラム教徒に教区区民ホールや幼稚園をイスラムの礼拝用に使わせるようにと命令したのです。
このテキストのために、毎年ローマでさえ、聖座がイスラムの断食の月であるラマダンの月の始まりにおいて、彼らの上にアラーの祝福を願うあいさつを送っているのです。
このテキストの別の結果として、数年前ローマ市長は約20万平方フィート(18,581平方メートル)の土地をそこにイスラム・センターを設立するためにイスラム教徒への贈り物としてあたえたのです。そこの巨大なイスラム寺院(モスク)はイスラム世界外で最大のものとなることでしょう。その建築はもうすぐ終わるでしょう。そしてその着工式という重要な儀式には、聖座はそれに参加すべく代表団を送ったのです!
イスラムが16世紀17世紀に手掛けて成功できなかったことを、今、移民という平和的な侵略の方法で成し遂げようとしています。例えば、わたしはこんな新聞の記事を読みました。英国では2カ月に1つの割合で新しいモスクが誕生するそうです。2カ月に1つですよ! 信じられません。皆さん仮に、聖伝のミサのミサ・センターが2カ月に1つの割合で英国にできている、と想像してみてください。
パキスタン人はイギリスとスカンジナヴィアへ移民しています。トルコ人はドイツへ移民しています。アラブ人はフランスへ移民しています。そしてこれらの移民のために、わたしたちの国のアイデンティティーが、そしてさらにはキリスト教世界それ自体が完全に破壊されつつあります。
何故わたしたちの祖先は1571年10月7日に侵略しつつあったトルコ人に対してレパントの戦いを戦ったのでしょうか。何故わたしたちの祖先は1683年9月12日、オーストリアのウィーンの門で戦ったのでしょうか。何故なら、彼らは自分の信仰が危機にさらされているのをよく理解したからです。ですから彼らは我らの主の天主性を認めない人々、教会も聖三位一体も認めない人々、つまり同じ天主をもたない人々に対して戦い、自分を守ったのです。
ユダヤ教
公会議はそれでは、ユダヤ教に対しては何と言っているのでしょうか。これは第4番において詳しく取り扱われています。これはデリケートな問題です。しかし神学の光を当てつつ少し見て見ましょう。
天主が一つの民族を選び、来るべきメシアを準備し、時が満ちては、この多くの予言者によって準備されていたメシアはご自分の民によって捨てられ史家の彼らはそのメシアを十字架につけてしまったということは明らかなことです。わたしたちキリスト者は、この預言者たちが予言していた全てのこと、我らの主イエズス・キリストがこの世に伝えた全てのことの相続人である、ということは全く疑いのないことです。
わたしたちはアブラハムと全く同じ信仰をもっています。アブラハムは我らの父です。わたしたちはアブラハムの信仰を、その同じ信仰をもっています。つまりアブラハムは将来の贖い主を信じました。わたしたちをその同じ既にこの世に来た贖い主を信じています。同じ贖い主ゆえに、同じ信仰なのです。
しかし、このアブラハムとわたしたちの共通の贖い主を否定している今日のユダヤ教を、信仰においてわたしたちの兄であるとは、呼ぶことはできません。それなのに、3年前(1986年)教皇様がローマのシナゴーグを訪問されたとき、どうしてそのようなことを言うことができたのでしょうか。
さらに、もう一つ疑問があります。ユダヤ教徒は天主殺しの罪を負っているのでしょうか。わたしたちは肯定しなければなりません。何故なら、我らの主の死を要求し、その御血を自分の頭上、自分の子孫の頭上に呼び叫んだのは、まさにユダヤ教徒だったからです。わたしは事をはっきりしておきたいと思います。すなわち今ここではわたしはユダヤ人を人種として話しているのではなく、ユダヤ教と言う一つの宗教のユダヤ教について語っています。では今日のユダヤ教徒についてはどうでしょうか。彼らがこの天主殺しの罪から身を引き、自分の祖先の行為から手を引かないかぎり、彼らもその罪を負うことになります。彼らはこの罪から離れ我らの主を認めなければなりません。彼らは洗礼を受けキリストの弟子にならなければなりません。
宗教無関心の精神
このようなほかの諸宗教に対する好意は必ずアシジでのようなイベントへと導いていきます。アシジでは教皇様はこの世の平和を祈るためにすべての宗教とともに祈りの集会を開いたのでした。
しかしこの集会は超自然の秩序を崩壊するでしょう。もはやそこには信仰や成聖の聖寵に関することは何もなく、ただあるのは人種主義反対闘争だとか、この世の平和のために歌を歌うだとか、環境保護だとか、技術の進歩、さまざまな国における社会の発展、第三世界の発展、等の自然の秩序に属する非超自然のことにすり替えられてしまっています。
この宗教無関心の精神はどこにでも、どんな小さな村にでまでも、最も細部に至るまで浸透しきってしまっています。わたしはつい最近インドの南に浮かぶ島、スリランカに行ってきました。そこの信者たちはわたしにこう話してくれました。わたしがそこに到着するすぐ前の日曜日に教区司祭はこうお説教したそうです。将来一つの世界宗教ができること、今までは我々はいろいろな偶像を排斥して来たけれど、将来はそれを拝み礼拝しなければならなくなること、信仰のために自分の血を流して来た殉教者は少し頭がいかれていたこと、などなど。
4− 信教の自由に関する宣言(Dignitatis Humanae)
では信教の自由に関して取り扱ってみましょう。ここでは“Dignitatis Humanae"という宣言を見てみます。これに関するカトリックの教えは一体何でしょうか。カトリックの教えは、唯一の天主、すべての創造主がましますこと、唯一のイエズス・キリスト、唯一の教会が存在すること、そしてこの教会とこのイエズス・キリストをすべての被造物が、各々のそしてすべての個人が、また家族、学校、国家などといったすべての社会団体が、それと認めなければならないことを教えています。
それらすべては我らの主を認めなければなりません。すなわち、主をその憲法、法律、その生活に取り込むことによって、社会的に認めなければなりません。このことは、すべての国家がとりわけその大半の市民がカトリックである国家は、公式に我らの主とその教会をその唯一の宗教として認めなければなりません。そして、他の宗教の公の宗教活動に制限をつけなければなりません。きっとこんなことを聞くと皆さんの中にはそれは受け入れがたいとか、国家型の宗教を束縛するのは恐ろしく不公平だと言われる方があるかも知れません。
それに答えるために、道徳の領域に関するいくつかの類比の例を挙げます。もしも彼かが自殺を図ろうとしたら、国家は、この人が自殺できないようにして当然ではないでしょうか。はい、国家は人が自殺できないように禁じ妨害する権利と義務があります。もしだれかが堕胎をしようとしたら、国家は堕胎ができないようにする権利があるでしょうか。はい。国家は堕胎ができないようにする権利と義務があります。
では、誤謬を広め、霊魂に害悪を与える他の宗教についてはどうでしょうか。その他の宗教はある意味で、国家の社会秩序を破壊しています。では何故、国家はある一定の状況のもとで、他の諸宗教に対して制限を加える権利と義務とを持ってはならないのでしょうか。
例えば、第二バチカン公会議前のスペイン憲法には、こうありました。その第一条に「スペインにおいてはカトリック教が国家宗教である」と、そして第二条に「個人生活においては、何人もいかなる方法においても、その個人の信条ゆえに害を受けない」、第三条「公的生活においては、国家宗教のみが公に活動する権利を持つ。」この条項はカトリック信者の信仰を保護するのに非常に役に立ったのです。
このことはまさしくイスラム世界が今日していることです。彼らをイスラム国家を建設しているので、そこではキリスト者として生活するのは非常に困難なことです。では、何故彼らが誤謬にたいしてかくもしている保護を、どうして私たちが真理に対してすることができないのでしょうか。
もはや我らの主は、私たちの議会・憲法・裁判所・行政のいかなるところにも君臨してはいません。主は憲法において、社会団体の公の生活において、他の宗教と同じレベルに落とされてしまったのです。このことは第二バチカン公会議が求め要求したことです。すなわち、いかなる宗教もその誤謬と誤りを広めるのに妨げを受けてはならないこと、すべての宗教は法の下で平等に扱われること、をです。
このことに関して公会議が言うことを聞いてください。
「このバチカン教会会議は、人間が信教の自由に対して権利を持つことを宣言する。」(2)
バチカン公会議によると、信教の自由は人間の自然権なのだそうです。しかしこのことは教会によって常に排斥されて来ていました。このことを説明します。
「この自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、…ところにある。」(2)
このところまでは私たちは同意することができます。実際に、教会は常に何人も信仰を受け入れるようにと強制されえないことを教えてきました。また信仰とは内的な行為ですから、外的に強制することができないのです。しかし、これに続く次の文章が全く新奇なものなのです。
「また私的あるいは公的に、…行動するのを妨げられない。」(2)
これが問題です。だれかが公に、自分の偽りの宗教を広め、自分の誤ったイデオロギーを喧伝しているとしたら、この人はそれを妨げられるでしょうか、それともだれもそれを妨げてはいけないのでしょうか。教会は、ある一定の条件の下では、この人は規制を受けうるしそうされて当然だと教えています。
この無制限の自由は無制限の良心の自由、意見・報道の自由さらには道徳に関する領域での自由へとつながっています。この自由がその背後で、例えば、堕胎に関する議論を正当化しようとしており、堕胎は今や信じられないほどの様相を示しています。堕胎を擁護した人達はこんなふうに議論しました。何人も堕胎を強制されていない。ただ法律が単に制限を取り除いて自由を与えるだけだ、と。しかし、このこと自体が犯罪なのです。いかなるほうも堕胎をする権利あるいは自由を与えることはできません。
このことはまさにピラトがバラバと我らの主イエズス・キリストと、どちらを選ぶかと群衆に問いたのと同じです。つまり、この法によって皆に自由が与えられた。おまえたちは何を望むか、バラバかそれともキリストか。堕胎かそれとも堕胎をしないことか。偽りの宗教かそれとも真の宗教か。そんなのはどっちでもよいのだ! 真理なんてなにさ!
5 現代世界憲章(Gaudium et Spes)
さて、公会議の第五の文章に来ました。皆さんにお話ししたいと思っているのは、現代世界の中における教会について取り扱った、現代世界憲章(Gaudium et Spes)です。この憲章はこの世界に対して大変楽観的な世界観を示しています。これはヨハネ二十三世がした公会議の開会の説教と全く一致しています。(既にお話ししたヨハネ二十三世の説教を思い出してください。)公会議はまさにそれと同じことを言います。
「現代人の精神的動揺と生活条件の変化は、もっと広範な変化と関連がある。すなわち、人間の精神的形成においては数学、自然科学、人間に関する科学が、そして人間の行動においてはこれらの学問が生み出した技術がますます重要視されてきたことである。この科学精神は、今までのものとは違う文化形態と思考様式とを生み出した。科学技術の進歩は地球の表面を変え、宇宙の征服にまで乗り出した。
人間理性は字間の上にも、ある意味での支配権を広げた。すなわち、歴史的知識によって過去を、また推測と計画性によって未来を支配する。生物学、心理学、社会学の進歩は人間に関する知識を深めるのに役立つばかりでなく、技術的方法を用いることによって団体生活に直接影響を与える手段を提供する。同氏に、人類は人口増加の予測とその調整についてますます関心を深めている。
歴史の経過そのものも、動きが早く、各個人がそれについてゆけないほどである。人類社会の未来は一つとなり、もはや過去のように種々の集団に別れて、それぞれ別個の歴史を持つようなことはない。要するに人類は、静的世界観から動的・進化的世界観に移行したのである。そこから膨大で複雑な、新しい課題が生じ、それは新たな分析と総合を要求している。」(5)
もし皆さんがこれを受け入れるのなら事態がもう少し先に進めばすべての問題が解決するのだと信じることができます。そして将来はこの地上に完全な楽園ができることでしょう。将来、人類は避妊の方法を使って人口増加を調整することさえできるでしょう。このことは少なくとも暗に示されています。
「信者は同時代の人々と密接に結ばれた生活を営み、文化を通して表現される彼らの考え方や感じ方をよく知るように努力しなければならない。現代の科学と学説及び新しく発見された知識を、キリスト教の道徳と教理に結び付けることによって、宗教心と道徳感とが科学知識や絶えず進歩する技術と同じ歩調で歩むようにしなければならない。こうすることによって信者はあらゆるものを真正のキリスト教的感覚をもって評価し解釈することができる。」(62)
ですからもし皆さんがこれらすべてとともに生活を営まなければ、真正のキリスト教的感覚を持つことができないのです。ですから私たちの祖先は技術など知らなかったので、真正のキリスト教的感覚を持ってはいなかったのです。
「教会は無神論を完全に排斥するが、信ずる者も信じていない者も、すべての人が、ともに生活しているこの世界を正しく建設するために尽力すべきことを真心を込めて主張する。これはも心ある慎重な話し合いなくしてはあり得ない。」(21)
しかし聖パウロはこれに反して、すべての時代のキリスト者に不信者とともに同じくびきを負うなと戒めている。「つり合わない首かせを未信者とともにもつな。正義と不義に何のつながりがあろう。光と闇に何の交わりがあろう。キリストとベリアルに何の了解があろう。信者と未信者に何のかかわりがあろう。神の聖所と偶像に何の一致があろう。」(2コリント6:14-15)
また公会議が婚姻の目的をひっくりかえしたというのも非常に驚くべきことです。教会の伝統的な教えによると婚姻の第一の目的は、子供の出産であるし、子供の出産でありました。婚姻の第二の目的は相互の愛です。公会議はこれらの目的の順序をひっくりかえしているのです。現代世界憲章の第49にはまず夫婦愛について語り、次の50に婚姻の実りについて語るのです。
1968年教皇パウロ六世がその回勅『フマーネ・ヴィテ』(Humanae Vitae)を発表したとき、この教皇の教えに反対するものすごい抗議の嵐が沸いたということに驚いてはなりません。なぜなら既に公会議は間違った考えと幻想を与えていたからです。
ラッチンガー枢機卿さえ、この公会議の現代世界憲章を《反シラブス anti-Syllabus》だ、と呼んだほどです。
ではこの《シラブス》とは何でしょうか。これは「誤謬表」と訳され、間違った命題誤・謬の命題集です。シラブスに掲げられたこれら全ての命題は全て教皇ピオ九世によって排斥されました。
この近代主義者の謬説表の第80には、この命題が排斥されています。
「教皇は進歩、自由主義、現代文明と和解し、妥協できるし、またそうしなければならない。」(Dz2980)
この謬説によると教皇は我らの主の精神とこの世の精神とのあいだの一致を確立しなければならないというのです!
実はこのことはまさに第二バチカン公会議の最中に起こったことなのです。特にこの憲章においてです。これはこの腐敗した世界とその非信者とが、カトリック教と言わば結合しよう。和解しようとする試みなのです。
誤った解決策
皆さん、このような状況において私は皆さんに幻想を抱くな、この問題に対する誤った解決策を取るな、と申し上げたいのです。この問題は、ほらここに、ほらあそこにまだスータンを着ているマリア様信心のある教皇様に信心のある保守的な司教がいるよ、と指し示すことによって解決するのではないのです。
この問題を解決するために、聖ペトロ会(1988年の司教聖別の後に、聖ピオ十世会を離れた幾人かの司祭らによって作られた修道院)といった修道会を設立し、この修道会にあちこちで聖伝のミサを捧げる権利を与えることではもないのです。
また、司教様が気まぐれにあちらこちらに聖伝のミサを捧げる許可を出すことでもないのです。なぜなら、そのためには、第1の条件として新しいミサを本当のカトリック・ミサと同じレベルにおくことになるからです。
本当の解決策
皆さん、本当の解決策とは、我らの主イエズス・キリストを全ての物事の原理としてもう一度確立し直すことです。
主をもう一度王座に就けること、主の王冠と王笏を主から取ってしまったものとしてもう一度主に返し、言わば大政奉還し、我らの主イエズスこそ唯一の救いの道、唯一の王、唯一の贖い主、唯一の救い主、唯一の大司祭かつ犠牲、生けるものと死せるものとを裁く唯一の審判者であることを宣言し、さらに我らの主イエズスこそ君臨しなければならないこと、主のみがこの世の全ての問題の解決し得る方であることを高らかに宣言することです。
はい、私たちはこう歌います。「Christus vincit, Christus regnat, Christus imperat!キリストは勝利され、キリストは君臨され、キリストは命令されたもう!」
そうです私たちは我らの主が君臨することを望んでいます。聖パウロはコリント人へこう言っています。“Oportet illum rengare."(主は君臨しなければならない。)聖ペトロも使途行録の中で“Non est in alio aliquo salus."(他のいかなる者においても救いはない。)と言っています。
もし皆さんが聖母マリア様にイエズス様についてどう考えておられるかと尋ねるなら、きっと聖母はこう言われるでしょう。「主イエズスのみが唯一の救い主です。私の天主なる御子は唯一の天主であり、主の教会こそが天主ご自身によって創立された天主起源の宗教です。あなたたちは救われるためにこれを認め信じなければなりません。」
「信仰を守って祈れ!」
皆さん、この信仰宣言において、また信仰の維持にあたって強くあって下さい。世界中どこにでもここに集まっている皆さんのようなグループがあって、皆全く同じ望みを、全く同じ目的を持っているのです。私はこのことを皆さんに請け負います。
私はつい最近アジアの8カ国を巡り回って来たばかりです。韓国の首都ソウルにも信者のグループがあり、私は行ってきました。彼らはほんの2年前にルフェーブル大司教様のことを聞いたばかりでした。彼らは何をしているのでしょうか。この人々はこう言うのです。「それ以来私たちは毎日1時間ルフェーブル大司教様のために、聖ピオ十世会のために祈り続けてきた」と。
私は午後ミサ聖祭を執行しようとしていました。すると彼らはこう尋ねてくるのです。私がミサの後も翌日の朝まで夜通し御聖体を残しておくことができないかと。私はこう申しました。「もしだれかそれの礼拝する人がいるのなら残しましょう。」彼らはこう答えました。「神父様、私どもは徹夜の礼拝をします。」そういう訳でわたしは御聖体を残し彼らは夜通し我らの愛する主を礼拝したのです。何と美しくすばらしい証言でしょうか。
しかしまた、どこにも同じ障害、同じ試練があります。たとえがシンガポールではそこの司教様はもしグループが聖ピオ十世会の司祭を支援し続けるとしたら彼らを全て破門すると脅しました。
スリランカ(昔のセイロン)では、ある教区司祭がわたしにこう話してくれました。「もしわたしが手による聖体拝領や聖体奉仕者として平信徒を使わないと、わたしの司教はわたしを恐喝するのです。云々。そしてわたしは教区を失ってしまうかも知れません。」この司祭はその司教区で一番大きな教区を担当しておられました。彼は以前神学校校長として活躍され、そこで学んだ以前の35人の生徒が今では司祭として働いています。そういう訳で彼は非常に学識にとんだすばらしい司祭なのです。
同じくスリランカで、ある修道女はこう言ってきました。「私はもうとても今自分のいる修道院に留まることはできません。もうできません。無理です。わたしは今流行のいろいろな新しいことを受け入れることができないのですっかり孤立してしまいました。」そうです、このような悲劇が世界中あちこちで今実際起きているのです。
友人の皆さん、祈らなければなりません。自分の信仰をよく理解できるように、自分の信仰において堅く立つことができるように、また教会破壊の根源が公会議後にいくつかの乱用があったからではなく実に公会議そのものにおいてその根があったということをよく知り分けるために、祈らなければなりません。いつの日か、公会議の教えを検討し、聖伝に反するものは取り除き、教会の教えに一致するものはそのままと留め、あいまいな表現は明確にし、本当の問題解決に乗り出す日がくるでしょう。そしてそうして初めて、教会はそのアイデンティティーをもう一度取り戻すのです。ですから聖母マリア様のご保護の下にともに立ち、このことをしっかりと保持致しましょう。
☆
これは聖ピオ十世会第二代総長でおられたフランツ・シュミットバーガー神父様が1989年4月24日アイルランドのダブリンでなされた講演会の訳です。日本の読者のために分かりやすく原文に忠実にかつかみ砕いて訳を試みました。もし分かりにくいところ、読みづらいところがあれば、それは一重に訳者の責です。そのさいは読者諸賢の御容赦をお願いいたします。英語原文に興味がある方は次のところに注文して下さい。
St. Joseph's House,
43, Tivoli Road, Dun Laoghaire, Co. Dublin. Ireland.
Tel. & Fax [353] (1)280 94 07
訳者: トマス小野田圭志
聖ピオ十世司祭兄弟会司祭